もみじのひと言

在宅医療ってとても奥が深い!院長として長い間在宅医療に関わるなかで、日々感じることを書いています。

最期に納得できる在宅医療を!

 今回は、在宅医療、訪問診療の”本質”を多くの方に知って頂きたい!

まだまだ、在宅医療や訪問診療について多くの誤解がある!

と感じることが多く、ブログを書いてみました。

 

 当院が開業した2007年当時、よく言われたことは、

在宅診療所ってなに?

訪問診療ってなに?

普通の診療所とどう違うの?

診療所内のつくりは普通の診療所と違うんだね!

かぜをひいてしんどくなったら、往診をしてくれるの?

などでした。

 

それから12年経った現在でも、診療所には「もみじ診療所にかかったことは無いのですが、いま調子がわるいので今日だけ往診に来て下さい。」

といった依頼が時々あります。

 

ご依頼を頂くのは当院にとってもありがたい事なのですが、

何の医療情報も無く初めての患者さんを自宅に訪問してできることは、

在宅医療に関してはほとんど無いのです。

結局、当院の外来にお越し頂くか、

検査の充実した病院での救急受診が必要であることをお話しさせて頂いています。

 

当院の在宅医療の経験からは、

  1. 少なくとも2週間に1回程度は顔を見て診察しなければ、現在の患者さんの病状は把握できず、信頼関係も生まれにくい。
  2. 人生の最終段階における医療、ケアの決定(リビングウイル)については、医師と患者の信頼関係がなければ相談することもできない。
  3. 上記の条件が満たされなければ、病状変化時や緊急時の対応がうまくできず、自宅での療養継続、看取りはかなわない。
  4. バイタルチェックや処方箋配りは在宅医療の一部ではあるが、本質では無い。
  5. どこでどう過ごし、どのように最期を迎えるかを医師と患者さん、ご家族が相談する。最期を迎えた後に、その死に納得できる、満足できる在宅医療を目指したい。

と思っています。

 

 

最期に少し、

”コンビニ在宅医療”という言葉を最近耳にします。

患者さんの立場を考えて施そうとする本来の意味の在宅医療とは反対で、業務として効率の良い在宅医療を施そうとする立場の在宅医療です。

 

国の在宅医療の基本ルールは、

  • 外来通院困難な方に対して、自宅に訪問、診療すること。
  • 訪問診療は、定期的に、計画的に行う事。
  • 病状の変化時などは、いつでも連絡がとれるようにしておくこと。
  • 必要時には、往診などを行い対応する事。

 と定められています。

ルールとしては、上記の条件をみたせば、在宅医療の診療報酬を得られます。

 

このため、効率の良い”コンビニ在宅医療型”の診療所が、最近多くなりつつあります。

コンビニ在宅医療には、以下の特徴があります。

定期的に訪問するものの、毎回違った非常勤ドクターがパート医として訪問。

夜間、休日の非常時は複数の医療機関でつくる”コールセンター”が患者さんからの連絡をうけて、そのあと日頃患者さんを診ていないドクターが対応する。

人生の最終段階における医療、ケアの決定(リビングウイル)についての話が普段から全くない。

 

「どんな在宅患者さんでも断りません、いつでもすぐに在宅医療を行います。」

など、聞こえの良いキャッチフレーズを聞くと、少し怪しいかなと思います。 

”悪貨は良貨を駆逐する” 状況に在宅医療が進んでいかないことを強く願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

在宅での緩和ケア : がん患者さんが自宅で過ごす方法

 こんにちは、もみじ在宅診療所 院長です。

 

今回は在宅医療、

特にがんの患者さんについて書いてみたいと思います。

 

当初から、もみじ在宅診療所の診療の中心である在宅医療。

その中でも特に経験を必要とし、

対応が難しいのががん患者さんの診療です。

 

 

 がんと診断された場合、ほとんどの方は病院で治療を行います。

可能であれば、

入院し詳しい検査を行った後、治療方法が決定されます。

手術、抗がん剤での治療、放射線治療など・・・

これらの治療は集学的治療と呼ばれ、

がんを根治することが第一の目標となっています。

 

日本の病院およびドクターはこれら治療に関しては非常に優秀で、

多くの病院が最新のエビデンスに基づいた治療を行っています。

私自身の経験からも自信をもって

”病院では、とても優秀な先生方が一生懸命患者さんに治療を行っている”

と言うことが出来ます。

 

 

 しかし現実には、根治できる“がん”ばかりではありません。

  • 手術後に再発する
  • 抗がん剤を繰り返してもがんが進行してしまう
  • 全身状態がよくないため、治療が難しくなる
  • 治療がつらい、または副作用のため治療継続ができない
  • 気力が続かない

 

など、様々な理由で“がん”と付き合うことを余儀なくされることもあります。

この段階での対応が最も難しいところなのです。

 

 

具体的には、

  • 治療を継続している病院に外来通院しているが、再発を指摘された。
  • 数ヶ月ごとに検査をするが、徐々に病気は進行していく。
  • 定期的に外来通院しており、時に抗がん剤治療などを提案され施行している。
  • 外来では今後のことをあまり話してもらえないが、なんとなく今のままで良いのだろうか?

 

このような状態です。

 

病院で、はっきりとしたことは言われていないが、

がん”と付き合っている状態を肌で感じている。

とてもあいまいな状態なのです。

 

 

 ほとんどの患者さんは、そのまま病院への外来通院を続けます。

  • 徐々にしんどさ、だるさ、食欲の低下が続き、何となく家にこもるようになる。
  • 家の中でも、食後にはすぐ横になる。
  • なんとなく一日中横になっている。
  • 体の痛みが出てくる。
  • でも、話をすればしっかりしているし、ご家族からは以前とあまり変わらないように見える。

「年をとってだらだらしているのだろう、気力の問題だ。」と言われてしまいます。

 

 

 数ヶ月~数年間、これらの状態が続いた後、限界になれば突然入院になります。

そのとき初めて、ご自身にがんの緩和ケアが必要な事を説明されます。

 

ターミナルケアについてのお話も聞き、”寝耳に水”に近い状態となりながら、自宅やホスピスなど今後過ごす場所の決断を迫られます。

 

 

 当院には、上記の経過で相談に来られる方が多くおられます。

結果、在宅医療を導入され自宅での緩和ケア、看取りを含めた関わりを多く経験させて頂いています。

 

 ただ、がん患者さんの診療のなかでいつも感じることがあります。

それは、

  1. あいまいな状態で不安を抱えたまま”がん”と付き合う時間が長すぎる。
  2. ターミナルケアのお話を聞くのがすこし遅い。
  3. 余命数ヶ月と言われてからではなく、もっと早く相談してもらえればもっと良い緩和ケアができるのに、

  などです。

 

がん患者さんが納得して自宅で過ごすためには、

早くから緩和ケアのドクターと関わることがとても重要です。

 

また、介護保険医療保険制度についても熟知している

良いケアマネージャーさんと心通じておく必要があります。

 

 

 ”がんと付き合っている状態”になったと肌で感じたら、当院外来にいつでもお越しください。

 

病院の外来通院と並行し、当院外来で緩和ケアについて相談して頂くことも可能です。

月に1回でも外来受診しお話をすることで、

あいまいで不安なまま”がん”と付き合う時間が緩和されるのではないかと思います。

看板のなかの ”ころ”

こんにちは。

ひさびさの更新になりました、更新がおそくて申し訳ありません。

もみじ在宅診療所、院長です。

 

今回は、当院の看板にある“犬”のマークについてお話ししたいと思います。

名前は“ころ”。

細長い胴体に、ドーベルマンの様な顔つき : ミニチュアダックスフンドです。

 

私の両親も私も大阪出身なのですが、転勤が多く高校生の頃は広島県呉市に住んでいました。

そのときに母親が友人からもらってきたのが、生まれたての“ころ”でした。

とても人懐っこくて好奇心が強く、すぐに仲良くなったのを覚えています。

 

遊ぶのが大好きで、毎日の散歩は必須でした。

雨が降ってもお構いなし。

私が学校から帰ってくると毎日「散歩に連れて行け!」と、“ころ”にせがまれ、散歩に行っていました。

母が「今日はもう散歩は済んだよ。」と、“ころ”に言ってもお構いなし。

“ころ“は毎日私が学校から帰ったら、散歩をせがみます。

 

高校3年生になって受験勉強が始まっても、“ころ”の散歩は続きました。

1時間近くも散歩したのに、家に近づくと早足になり、家の前をすっと通り過ぎて2週目の散歩・・・ なんて事が多々あったような気がします。

 

そんな“ころ”も、19才になったときに亡くなりました。

とても長寿で、そのとき私は35歳でした。

ちょうど私が医師になり、現在の“もみじ在宅診療所”の開業を考えていた頃でした。

 

今では当院の看板のなかで、ずっと“もみじ在宅診療所“を見守ってくれています。

在宅医療ってなに?

 今回は、在宅医療について書いてみたいと思います。

 

 今年で、もみじ在宅診療所を開設してから11年になります。

”もみじ在宅診療所” の名前の通り、当院は ”在宅医療” から始まりました。

今でも、在宅医療は当院の ”ソウル(魂)” とも言うべき中心の仕事です。

 

 

  2007年6月に当院を開設したのですが、

私自身その数年前まで、在宅医療というものをあまり良く知りませんでした。

在宅医療を知ったきっかけは、”訪問入浴サービス”というものに出会った事でした。

 

 

 2005年ごろ、妻が訪問入浴サービスのアルバイトを始めたのです。

訪問入浴とは介護保険のサービスで、

自宅のベッドのそばまでバスタブを持って行って、

患者さんに入浴して頂くサービスです。

 

仕事のメンバーが和気あいあいとしていた事や、

時給が良いという事もあり、

毎日楽しそうに訪問入浴サービスのアルバイトに行っていました。

 

当時、よく妻は仕事のお話をしてくれました。

「あんなことがあって・・・」

「家に行ったらこんなおじいさんがいて・・・」

「入浴しようとしたら、熱があって・・・」 などなど。

 

あるとき、

家に行ったら、おじいさんの調子がとても悪かったそうです。

熱があって、呼吸がしんどそうで、入浴は無理かな?

でも、放っておいたら心配な感じ!

 

そのとき、ご家族はかかりつけの在宅診療所に連絡したそうです。

「今の調子は、ああで、こうで・・」と先生に説明し、

重症なのに、時に笑顔でやりとりをしていた様でした。

 

結局、

「今はこの薬をつかって様子をみてていいよ。

また、調子が悪くなればいつでも連絡していいから。」

との事で、ご本人も家族も大変安心したそうです。

 

その後も同様の患者さんが何人もおられて、

いつも同じ在宅診療所に連絡をしていたそうです。

 

「調子が悪かったら、すぐに電話で相談できる在宅の先生がいるんだって!」

「調子が悪くても病院は嫌っていう人がこんなにいるんだ!」

と妻と話し合った事を覚えています。

 

 その在宅診療所が大阪市にあること、

数百人という多くの在宅患者さんを受け持っていることを知り、

それから数ヶ月後、私は通っていた大学院を辞めました。

初めて本格的な在宅医療を知り、勉強するため、

その在宅診療所にお願いし勤務させて頂きました。

そこでの数年間の経験が、今の当院の在宅医療の原動力になっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

COPD(慢性閉塞性肺疾患)という病気について

いま、近々おこなう当院の在宅医療勉強会に向けて、スライド作りをしています。

テーマは”COPD慢性閉塞性肺疾患)について・・・”

とても難しいです。

 

 

病院勤務時代から開業医である現在まで、

私自身とても多くのCOPDの患者さんと接してきました。

在宅医療や外来診療を行うなかで、今もCOPDの進行により在宅酸素療法を行っている方が大勢おられます。

 

多くの呼吸器専門の先生や看護師さんは、なんとなく、

あんな・・こんな・・感じの疾患・・  

といったように、

言葉よりも、画像や動画の様なもので理解している方が多いのではないかと思います。 

 

たとえば、

たばこをたくさん吸っていて、いつも ”ごほごほ” と咳をしている。

年をとってきて、どんどんやせていく。

やせたご老人が、少し歩くと ふぅー ふぅー と苦しそうに息をしている。

酸素ボンベを引っ張りながら、道を歩いている。

といったイメージでしょうか。

 

 

 医学的なお話になりますが、

現在、COPDは以下の様に定義されています。

 

「タバコ煙を主とする有害物質を長期に吸入曝露することなどにより生ずる肺疾患。

呼吸機能検査で気流閉塞を示す。

気流閉塞は末梢気道病変と気腫性病変がさまざまな割合で複合的に関与し起こる。

臨床的には徐々に進行する労作時の呼吸困難や慢性の咳・痰を示すが、これらの症状に乏しいこともある。」   

COPD 診断と治療のためのガイドライン2018より)

  

うーん、とても難しくわかりづらい!

勝手に病気を自分の言葉で説明すると・・

 

  • 喫煙を続ける事により肺が破壊され、息切れがひどくなる病気。
  • 坂道を上るときに息が苦しくなる、人よりも歩くのが遅くなってくる、などで気付くことが多い。
  • 年をとるにしたがって、どんどん息切れがひどくなっていく。
  • たんがからんだり、咳が続いたりすることが多くなる。
  • 特に風邪をひいた後など、咳やたんがしつこく続く。
  • 最終的にはやせてしまい、呼吸する力が衰えてくる。
  • 酸素を使用しなければ、苦しくて動けなくなる。

こんな病気です。

  

  

以前は肺気腫や慢性気管支炎と呼ばれたり・・・

ほとんどの医療関係者にとっては、分かっているようでよく分からない

不思議な疾患ではないかと思います。

 

 

 

少しでもCOPDについて理解するために

COPDの歴史を調べてみました。

 

数百年前から、労作時の息切れが進行して最終的に呼吸不全をひきおこす病気の記述がありました。

これら患者の肺は解剖時にも過膨張しており、病理学的に「肺気腫」と命名されました。

(風船の一部が均一にふくらまず、ぼこぼこと突出して膨らむ部分が多々ある。

そんな感じの肺をイメージするとわかりやすいかも・・)

 

時は流れて

1950年以降、息切れや咳、咳嗽などの症状があり、呼吸不全を呈する慢性の肺疾患を

米国では「肺気腫」、英国では「慢性気管支炎」と臨床診断していました。

国学派と英国学派で、今では同じ概念の疾患に違う名前をつけたのです。

これが、COPDを分かりにくくしている原因の一つかもしれません。

 

国学派の「肺気腫」とは、解剖学的に肺の過膨張からつけた名前。

国学派の「慢性気管支炎」とは、症候学に基づきつけた名前で、

 ”少なくとも2年以上、年間3ヶ月以上慢性の咳が続く状態” を指します。

 

その後、英国 Fletcher さんと米国 Burrow さんらが

肺気腫や慢性気管支炎など慢性の気流閉塞を来す疾患を統合し

「COLD(Chronic Obstructive Lung Disease)」と呼ぶように提唱しました。

そして、

1987年米国胸部学会(ATS)は「COLD」→「COPD」へと名称を変更。

現在の「COPD」という概念が誕生したのです。

 

2001年以降、

WHO(世界保健機構)とNHLBI(米国心臓、肺、血液研究所)を中心として

”GOLD(Global Initiative for Chronic Obstructive Lung Disease)”

とよばれるCOPDの世界的なガイドラインが作られ、

COPDの疾患概念が今も更新され続けています。

 

 

このような感じで、COPDの概念は時代と共に変遷していくものの様です。

ちょうど私自身が医師になった頃は、「COLD」と「COPD」が併用されていた気がします。

今でも臨床現場では、病院間でやりとりする診療情報提供書に、同じ患者さんでも

肺気腫と書かれたり、COPDと書かれたりしています。

臨床現場では、はっきりと割り切れない場合もあり、肺気腫、慢性気管支炎、COPD等それぞれ良く使用されています。

 

 

 最後にCOPDの事をまとめてみます。

GOLDなどで語られる最新のCOPDの概念は、自分なりに以下の様に理解しています。

 

1. COPDは、たばこなどの有害物質を長期吸入する事で生じる。

喫煙がCOPDの最大の原因であるが、全ての喫煙者が発症するわけではない。

(1日1箱程度20年喫煙 → 20%程度の方がCOPDの発症)

非喫煙者COPDを発症する事もあり、COPDの発症には遺伝的素因の関与が疑われる。

 

2. COPDは、気流閉塞を示す事が疾患の中心部分。

肺気腫はほとんどがCOPDに含まれる。

慢性気管支炎もCOPDに含まれることが多いが、

慢性気管支炎というだけではCOPDとは呼ばないのかもしれない。

COPDの診断のためにはスパイロメトリー検査を行う事が絶対に必要で、

気流閉塞(閉塞性換気障害)がなければCOPDと呼んではいけない様である。

もちろん、気流閉塞を来す他の呼吸器疾患(気管支喘息など)は除外しなければいけない。

 

3. COPDの初期段階では肺胞の破壊による気腫性変化が中心で、その近くの末梢気道の炎症も併存する。

主に肺の気腫性変化により気流閉塞(閉塞性換気障害)が増悪していくが、さまざまな割合で末梢気道の炎症による関与もある。

 

4. COPDの症状は徐々に進行する労作時の呼吸困難や慢性の咳、痰である。

禁煙や治療により進行を遅らせることが出来る。

COPDと診断されても、進行の仕方や症状は人により大きく違うこともある。

場合によっては急速に進行したり、進行がとても遅かったりする。

痰が多かったり、ほとんど無かったりする。

もしかすると、将来は全く違うとされる病気がCOPDの中に多く含まれている可能性があるかもしれない。

 

 

自己紹介6

医師となって4~5年目に、大阪城近くのoo医療センターで呼吸器外科に所属。

肺癌を中心に多くの呼吸器疾患の患者さんと向き合いました。

 

その後に配属されたのは、豊中市にある刀根山病院でした。

今回は私が医師になって6~7年目にお世話になった、

刀根山病院について書いてみたいと思います。

 

 

刀根山病院は、当時 国立療養所刀根山病院と呼ばれていました。

(現在は独立行政法人国立病院機構刀根山病院と、長い名前!!)

 

設立は大正時代。

結核の治療では国内最古といってもよい病院だと思います。

 

北摂では、

肺の病気 = 刀根山病院 と思っておられる方も多く、

結核の治療や、神経難病の分野では、現在もとても有名な病院です。

 

 

私は、呼吸器外科医として刀根山病院で勤務することになりました。

そのときの呼吸器外科部長は ”かんちゃん先生”でした。

前回のフミヤ部長先生とは違い、とても穏やかで ジェントルマン。

かんちゃん先生には、困った時に相談したり、

遠くからそっと見守ってもらうような感じで毎日が過ぎていきました。

今でも大変感謝しています。

 

 

話を刀根山病院に戻すと・・・

この病院の特徴は、第1に結核の診療です。

 

結核は過去の病気と思われることが多く、

ほとんどの医師は、現在結核という病気に接することがありません。

 

空気感染する伝染病でもあり、

市民病院などに結核の患者さんが来院すれば、とても大騒ぎになります。

 

このため、多くの医師を含む医療関係者は、

結核と聞けば必要以上に恐れ、近づかないのです。

私も恥ずかしながら、刀根山病院に行くまでは、そうでした。

 

 

しかし、刀根山病院は別でした。

恐れること無く、結核患者さんにべったりと寄り添っていく。

普通に、医師も看護師も、その他の職種の方も。

 

とても結核に慣れているのです。

 

毎日のように、大阪中の病院から結核患者さんが転院してこられ、

特に驚くことも無く、すべてを受け入れ淡々と結核の診断、治療を行っていきます。

 

結核については何一つ知識の無かった私は、刀根山病院で多くを学びました。

結核の症状、診断方法、治療方法、治癒が難しくなっ場合の対応など・・・

教科書には書いていない、生の治療がそこにはありました。

 

昔から人類が悩まされ、現在も私たちを苦しめている病気。

治療の歴史には、

もがき続けた人々がはまり込んだ闇とも思える治療法もあり、

呼吸器の専門を目指す医師は必ず知っておかなければいけない疾患であると思います。

 

 

刀根山病院の第2の特徴は、

肺癌はもちろん、多くの呼吸器疾患を診療している点です。

 

大阪には歴史ある呼吸器疾患専門病院がいくつかあり、

刀根山病院、近畿中央病院、羽曳野病院などが御三家として挙げられます。

いずれも、旧結核療養所として呼吸器疾患を診療していたこともあり、

結核を含めあらゆる呼吸器疾患がこの病院群に集まってきます。

 

刀根山病院もそうでした。

びまん性肺疾患、COPD気管支喘息、呼吸器感染症、非結核性抗酸菌症、慢性呼吸不全など。

圧倒的多数の呼吸器専門ドクターが在籍し、

一般の病院では年に数回しか診ることが無い疾患に毎日接している。

昔も今も刀根山病院は、呼吸器のプロフェッショナル集団だと思います。

 

 

現在、私はもみじ在宅診療所で在宅医療、外来診療を行っています。

 

特に外来では、

発熱や痰が多くなった

咳が長く続いている

肺癌が心配

息切れがひどくなった

などの患者さんが多く来院されます。

 

呼吸器疾患の患者さんに出会えた日には、刀根山病院の事を思い出し、

少し懐かしさを感じることがあります。

刀根山病院での経験は、私にとっての大きな財産だと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己紹介5

私、もみじさんが医師になってから、

現在の ”もみじ在宅診療所” を開設するまでをブログで紹介しています。

 

 

今回は医師になって4~5年目。

今から20年ほど前のお話です。

 

大阪城近くの市中病院で川ちゃん先生と出会い、

次の研修先として勧められたoo医療センターにレジデントとして応募。

呼吸器外科レジデントとして採用されたところからのお話です。

 

 

oo医療センターは大阪の都島にあり、前回の研修先からほど近くの病院です。

 

病院の規模はとても大きく、ベッド数は1000床以上もある巨大病院でした。

いくつかの大阪の市立病院が統合して出来たため、たくさんの科が存在しており、

それぞれの科がそれぞれの歴史をもっているようでした。

 

良く言えば、

それぞれの科はとても高度な専門性をもち、圧倒的多数の症例に最先端の医療を行っている 。

 

悪くいえば、

別の科に行けば別の病院の様で、役所の”縦割り”に似たものを感じる病院です。

 

私は呼吸器外科のレジデントとして、呼吸器科に所属させてもらいました。

 

 

ここでの部長は、髪は少し茶髪、50歳前後、藤井フミヤに似た雰囲気をもった

フミヤ先生でした。

 

川ちゃん先生から聞いていたとおり、とても優秀なのですが、

いらち です。

勉強もスポーツも自信満々なもてもての優等生といったタイプの先生でした。

 

 

初日から、挨拶もそこそこに手術浸けの毎日が始まります。

朝も、昼も、夕も、手術に次ぐ手術。

 

レジデントは呼吸器外科の全ての手術に入ることがルールの様で、

1日2~3件の手術に参加していました。

 

手術後は、呼吸器内科の先生と一緒にカンファレンス(症例検討会)、

呼吸器の検査や疾患の勉強、患者さんの回診等。

息つく暇もなく、毎日が過ぎていきました。

 

少しずつ勉強していくのでは無く、

圧倒的多数の呼吸器疾患の患者さんに囲まれ、呼吸器の世界にどっぷりと浸かり研修していくスタイルでした。

 

 

そうこうする内に、1年が経過。

少し慣れ始めた頃に、私の母から一本の電話がありました。

当時私は病院の近くに一人暮らしをしており、

母は大阪の実家で父と一緒に住んでいました。

 

「最近鼻血が止まらないことが多くて、近所の病院に行ってみる。」

それだけでした。

 

なにか胸騒ぎがした私は、後日母に電話し、

「大きな病院に行った方がいいかもね、いい病院を聞いといてあげる。」

といったのです。

 

それから、母はある病院で検査を行い、悪性腫瘍が見つかってしまいました。

 

とても不幸な病気であったため、

数ヶ月のうちに癌は進行し、いわゆる末期状態となってしまいました。 

 

まだ50代であった母は入退院をくり返し

ある日お見舞いに行った時、

別れ際に

「もう自分の家でずっと過ごしたい。」と言いました。

 

 

今から20年ほど前。 

まだ、在宅医療も介護保険もない時代でした。

今のように、訪問診療をしてくれる先生もみつからないところ

無謀にも ”母を家に連れて帰る” ことを家族で決めたのです。

 

主治医は私です。

 

いまから考えると、ひどく我流の在宅医療でしたが、

病院の先生と話し合いをし、家で看取ることを前提に実家に母を連れて帰りました。

 

 

それからは、呼吸器外科での研修を続けながら、

夜は少し早めに実家に帰る。

朝まで母親と過ごし、また実家から病院に出勤する生活を数ヶ月行いました。

 

最終的には、実家の近所のかかりつけ診療所の先生の助けもお借りして、

実家で母を看取りました。

 

これが、私の初めての在宅医療でした。

 

 

その後も、oo医療センターでの研修は続きました。

前にも増して、どっぷりと呼吸器の世界に浸かり、

呼吸器の医師としての経験、知識等はフミヤ先生にたたき込まれました。

 

一人前になるために、大きな病院でたくさんの症例を経験する。

寝る間を惜しんで文献を調べ、学会発表を行う。

医師としてはとても大切なことです。

 

とても名誉なエリート教育というものかも知れません。

 

しかし、この頃から少しずつ

”偉い先生” になる事に疑問を感じ始めました。

 

 

次の病院でのお話に続きます・・・