もみじのひと言

在宅医療ってとても奥が深い!院長として長い間在宅医療に関わるなかで、日々感じることを書いています。

自己紹介5

私、もみじさんが医師になってから、

現在の ”もみじ在宅診療所” を開設するまでをブログで紹介しています。

 

 

今回は医師になって4~5年目。

今から20年ほど前のお話です。

 

大阪城近くの市中病院で川ちゃん先生と出会い、

次の研修先として勧められたoo医療センターにレジデントとして応募。

呼吸器外科レジデントとして採用されたところからのお話です。

 

 

oo医療センターは大阪の都島にあり、前回の研修先からほど近くの病院です。

 

病院の規模はとても大きく、ベッド数は1000床以上もある巨大病院でした。

いくつかの大阪の市立病院が統合して出来たため、たくさんの科が存在しており、

それぞれの科がそれぞれの歴史をもっているようでした。

 

良く言えば、

それぞれの科はとても高度な専門性をもち、圧倒的多数の症例に最先端の医療を行っている 。

 

悪くいえば、

別の科に行けば別の病院の様で、役所の”縦割り”に似たものを感じる病院です。

 

私は呼吸器外科のレジデントとして、呼吸器科に所属させてもらいました。

 

 

ここでの部長は、髪は少し茶髪、50歳前後、藤井フミヤに似た雰囲気をもった

フミヤ先生でした。

 

川ちゃん先生から聞いていたとおり、とても優秀なのですが、

いらち です。

勉強もスポーツも自信満々なもてもての優等生といったタイプの先生でした。

 

 

初日から、挨拶もそこそこに手術浸けの毎日が始まります。

朝も、昼も、夕も、手術に次ぐ手術。

 

レジデントは呼吸器外科の全ての手術に入ることがルールの様で、

1日2~3件の手術に参加していました。

 

手術後は、呼吸器内科の先生と一緒にカンファレンス(症例検討会)、

呼吸器の検査や疾患の勉強、患者さんの回診等。

息つく暇もなく、毎日が過ぎていきました。

 

少しずつ勉強していくのでは無く、

圧倒的多数の呼吸器疾患の患者さんに囲まれ、呼吸器の世界にどっぷりと浸かり研修していくスタイルでした。

 

 

そうこうする内に、1年が経過。

少し慣れ始めた頃に、私の母から一本の電話がありました。

当時私は病院の近くに一人暮らしをしており、

母は大阪の実家で父と一緒に住んでいました。

 

「最近鼻血が止まらないことが多くて、近所の病院に行ってみる。」

それだけでした。

 

なにか胸騒ぎがした私は、後日母に電話し、

「大きな病院に行った方がいいかもね、いい病院を聞いといてあげる。」

といったのです。

 

それから、母はある病院で検査を行い、悪性腫瘍が見つかってしまいました。

 

とても不幸な病気であったため、

数ヶ月のうちに癌は進行し、いわゆる末期状態となってしまいました。 

 

まだ50代であった母は入退院をくり返し

ある日お見舞いに行った時、

別れ際に

「もう自分の家でずっと過ごしたい。」と言いました。

 

 

今から20年ほど前。 

まだ、在宅医療も介護保険もない時代でした。

今のように、訪問診療をしてくれる先生もみつからないところ

無謀にも ”母を家に連れて帰る” ことを家族で決めたのです。

 

主治医は私です。

 

いまから考えると、ひどく我流の在宅医療でしたが、

病院の先生と話し合いをし、家で看取ることを前提に実家に母を連れて帰りました。

 

 

それからは、呼吸器外科での研修を続けながら、

夜は少し早めに実家に帰る。

朝まで母親と過ごし、また実家から病院に出勤する生活を数ヶ月行いました。

 

最終的には、実家の近所のかかりつけ診療所の先生の助けもお借りして、

実家で母を看取りました。

 

これが、私の初めての在宅医療でした。

 

 

その後も、oo医療センターでの研修は続きました。

前にも増して、どっぷりと呼吸器の世界に浸かり、

呼吸器の医師としての経験、知識等はフミヤ先生にたたき込まれました。

 

一人前になるために、大きな病院でたくさんの症例を経験する。

寝る間を惜しんで文献を調べ、学会発表を行う。

医師としてはとても大切なことです。

 

とても名誉なエリート教育というものかも知れません。

 

しかし、この頃から少しずつ

”偉い先生” になる事に疑問を感じ始めました。

 

 

次の病院でのお話に続きます・・・