もみじのひと言

在宅医療ってとても奥が深い!院長として長い間在宅医療に関わるなかで、日々感じることを書いています。

在宅医療ってなに?

 今回は、在宅医療について書いてみたいと思います。

 

 今年で、もみじ在宅診療所を開設してから11年になります。

”もみじ在宅診療所” の名前の通り、当院は ”在宅医療” から始まりました。

今でも、在宅医療は当院の ”ソウル(魂)” とも言うべき中心の仕事です。

 

 

  2007年6月に当院を開設したのですが、

私自身その数年前まで、在宅医療というものをあまり良く知りませんでした。

在宅医療を知ったきっかけは、”訪問入浴サービス”というものに出会った事でした。

 

 

 2005年ごろ、妻が訪問入浴サービスのアルバイトを始めたのです。

訪問入浴とは介護保険のサービスで、

自宅のベッドのそばまでバスタブを持って行って、

患者さんに入浴して頂くサービスです。

 

仕事のメンバーが和気あいあいとしていた事や、

時給が良いという事もあり、

毎日楽しそうに訪問入浴サービスのアルバイトに行っていました。

 

当時、よく妻は仕事のお話をしてくれました。

「あんなことがあって・・・」

「家に行ったらこんなおじいさんがいて・・・」

「入浴しようとしたら、熱があって・・・」 などなど。

 

あるとき、

家に行ったら、おじいさんの調子がとても悪かったそうです。

熱があって、呼吸がしんどそうで、入浴は無理かな?

でも、放っておいたら心配な感じ!

 

そのとき、ご家族はかかりつけの在宅診療所に連絡したそうです。

「今の調子は、ああで、こうで・・」と先生に説明し、

重症なのに、時に笑顔でやりとりをしていた様でした。

 

結局、

「今はこの薬をつかって様子をみてていいよ。

また、調子が悪くなればいつでも連絡していいから。」

との事で、ご本人も家族も大変安心したそうです。

 

その後も同様の患者さんが何人もおられて、

いつも同じ在宅診療所に連絡をしていたそうです。

 

「調子が悪かったら、すぐに電話で相談できる在宅の先生がいるんだって!」

「調子が悪くても病院は嫌っていう人がこんなにいるんだ!」

と妻と話し合った事を覚えています。

 

 その在宅診療所が大阪市にあること、

数百人という多くの在宅患者さんを受け持っていることを知り、

それから数ヶ月後、私は通っていた大学院を辞めました。

初めて本格的な在宅医療を知り、勉強するため、

その在宅診療所にお願いし勤務させて頂きました。

そこでの数年間の経験が、今の当院の在宅医療の原動力になっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

COPD(慢性閉塞性肺疾患)という病気について

いま、近々おこなう当院の在宅医療勉強会に向けて、スライド作りをしています。

テーマは”COPD慢性閉塞性肺疾患)について・・・”

とても難しいです。

 

 

病院勤務時代から開業医である現在まで、

私自身とても多くのCOPDの患者さんと接してきました。

在宅医療や外来診療を行うなかで、今もCOPDの進行により在宅酸素療法を行っている方が大勢おられます。

 

多くの呼吸器専門の先生や看護師さんは、なんとなく、

あんな・・こんな・・感じの疾患・・  

といったように、

言葉よりも、画像や動画の様なもので理解している方が多いのではないかと思います。 

 

たとえば、

たばこをたくさん吸っていて、いつも ”ごほごほ” と咳をしている。

年をとってきて、どんどんやせていく。

やせたご老人が、少し歩くと ふぅー ふぅー と苦しそうに息をしている。

酸素ボンベを引っ張りながら、道を歩いている。

といったイメージでしょうか。

 

 

 医学的なお話になりますが、

現在、COPDは以下の様に定義されています。

 

「タバコ煙を主とする有害物質を長期に吸入曝露することなどにより生ずる肺疾患。

呼吸機能検査で気流閉塞を示す。

気流閉塞は末梢気道病変と気腫性病変がさまざまな割合で複合的に関与し起こる。

臨床的には徐々に進行する労作時の呼吸困難や慢性の咳・痰を示すが、これらの症状に乏しいこともある。」   

COPD 診断と治療のためのガイドライン2018より)

  

うーん、とても難しくわかりづらい!

勝手に病気を自分の言葉で説明すると・・

 

  • 喫煙を続ける事により肺が破壊され、息切れがひどくなる病気。
  • 坂道を上るときに息が苦しくなる、人よりも歩くのが遅くなってくる、などで気付くことが多い。
  • 年をとるにしたがって、どんどん息切れがひどくなっていく。
  • たんがからんだり、咳が続いたりすることが多くなる。
  • 特に風邪をひいた後など、咳やたんがしつこく続く。
  • 最終的にはやせてしまい、呼吸する力が衰えてくる。
  • 酸素を使用しなければ、苦しくて動けなくなる。

こんな病気です。

  

  

以前は肺気腫や慢性気管支炎と呼ばれたり・・・

ほとんどの医療関係者にとっては、分かっているようでよく分からない

不思議な疾患ではないかと思います。

 

 

 

少しでもCOPDについて理解するために

COPDの歴史を調べてみました。

 

数百年前から、労作時の息切れが進行して最終的に呼吸不全をひきおこす病気の記述がありました。

これら患者の肺は解剖時にも過膨張しており、病理学的に「肺気腫」と命名されました。

(風船の一部が均一にふくらまず、ぼこぼこと突出して膨らむ部分が多々ある。

そんな感じの肺をイメージするとわかりやすいかも・・)

 

時は流れて

1950年以降、息切れや咳、咳嗽などの症状があり、呼吸不全を呈する慢性の肺疾患を

米国では「肺気腫」、英国では「慢性気管支炎」と臨床診断していました。

国学派と英国学派で、今では同じ概念の疾患に違う名前をつけたのです。

これが、COPDを分かりにくくしている原因の一つかもしれません。

 

国学派の「肺気腫」とは、解剖学的に肺の過膨張からつけた名前。

国学派の「慢性気管支炎」とは、症候学に基づきつけた名前で、

 ”少なくとも2年以上、年間3ヶ月以上慢性の咳が続く状態” を指します。

 

その後、英国 Fletcher さんと米国 Burrow さんらが

肺気腫や慢性気管支炎など慢性の気流閉塞を来す疾患を統合し

「COLD(Chronic Obstructive Lung Disease)」と呼ぶように提唱しました。

そして、

1987年米国胸部学会(ATS)は「COLD」→「COPD」へと名称を変更。

現在の「COPD」という概念が誕生したのです。

 

2001年以降、

WHO(世界保健機構)とNHLBI(米国心臓、肺、血液研究所)を中心として

”GOLD(Global Initiative for Chronic Obstructive Lung Disease)”

とよばれるCOPDの世界的なガイドラインが作られ、

COPDの疾患概念が今も更新され続けています。

 

 

このような感じで、COPDの概念は時代と共に変遷していくものの様です。

ちょうど私自身が医師になった頃は、「COLD」と「COPD」が併用されていた気がします。

今でも臨床現場では、病院間でやりとりする診療情報提供書に、同じ患者さんでも

肺気腫と書かれたり、COPDと書かれたりしています。

臨床現場では、はっきりと割り切れない場合もあり、肺気腫、慢性気管支炎、COPD等それぞれ良く使用されています。

 

 

 最後にCOPDの事をまとめてみます。

GOLDなどで語られる最新のCOPDの概念は、自分なりに以下の様に理解しています。

 

1. COPDは、たばこなどの有害物質を長期吸入する事で生じる。

喫煙がCOPDの最大の原因であるが、全ての喫煙者が発症するわけではない。

(1日1箱程度20年喫煙 → 20%程度の方がCOPDの発症)

非喫煙者COPDを発症する事もあり、COPDの発症には遺伝的素因の関与が疑われる。

 

2. COPDは、気流閉塞を示す事が疾患の中心部分。

肺気腫はほとんどがCOPDに含まれる。

慢性気管支炎もCOPDに含まれることが多いが、

慢性気管支炎というだけではCOPDとは呼ばないのかもしれない。

COPDの診断のためにはスパイロメトリー検査を行う事が絶対に必要で、

気流閉塞(閉塞性換気障害)がなければCOPDと呼んではいけない様である。

もちろん、気流閉塞を来す他の呼吸器疾患(気管支喘息など)は除外しなければいけない。

 

3. COPDの初期段階では肺胞の破壊による気腫性変化が中心で、その近くの末梢気道の炎症も併存する。

主に肺の気腫性変化により気流閉塞(閉塞性換気障害)が増悪していくが、さまざまな割合で末梢気道の炎症による関与もある。

 

4. COPDの症状は徐々に進行する労作時の呼吸困難や慢性の咳、痰である。

禁煙や治療により進行を遅らせることが出来る。

COPDと診断されても、進行の仕方や症状は人により大きく違うこともある。

場合によっては急速に進行したり、進行がとても遅かったりする。

痰が多かったり、ほとんど無かったりする。

もしかすると、将来は全く違うとされる病気がCOPDの中に多く含まれている可能性があるかもしれない。

 

 

自己紹介6

医師となって4~5年目に、大阪城近くのoo医療センターで呼吸器外科に所属。

肺癌を中心に多くの呼吸器疾患の患者さんと向き合いました。

 

その後に配属されたのは、豊中市にある刀根山病院でした。

今回は私が医師になって6~7年目にお世話になった、

刀根山病院について書いてみたいと思います。

 

 

刀根山病院は、当時 国立療養所刀根山病院と呼ばれていました。

(現在は独立行政法人国立病院機構刀根山病院と、長い名前!!)

 

設立は大正時代。

結核の治療では国内最古といってもよい病院だと思います。

 

北摂では、

肺の病気 = 刀根山病院 と思っておられる方も多く、

結核の治療や、神経難病の分野では、現在もとても有名な病院です。

 

 

私は、呼吸器外科医として刀根山病院で勤務することになりました。

そのときの呼吸器外科部長は ”かんちゃん先生”でした。

前回のフミヤ部長先生とは違い、とても穏やかで ジェントルマン。

かんちゃん先生には、困った時に相談したり、

遠くからそっと見守ってもらうような感じで毎日が過ぎていきました。

今でも大変感謝しています。

 

 

話を刀根山病院に戻すと・・・

この病院の特徴は、第1に結核の診療です。

 

結核は過去の病気と思われることが多く、

ほとんどの医師は、現在結核という病気に接することがありません。

 

空気感染する伝染病でもあり、

市民病院などに結核の患者さんが来院すれば、とても大騒ぎになります。

 

このため、多くの医師を含む医療関係者は、

結核と聞けば必要以上に恐れ、近づかないのです。

私も恥ずかしながら、刀根山病院に行くまでは、そうでした。

 

 

しかし、刀根山病院は別でした。

恐れること無く、結核患者さんにべったりと寄り添っていく。

普通に、医師も看護師も、その他の職種の方も。

 

とても結核に慣れているのです。

 

毎日のように、大阪中の病院から結核患者さんが転院してこられ、

特に驚くことも無く、すべてを受け入れ淡々と結核の診断、治療を行っていきます。

 

結核については何一つ知識の無かった私は、刀根山病院で多くを学びました。

結核の症状、診断方法、治療方法、治癒が難しくなっ場合の対応など・・・

教科書には書いていない、生の治療がそこにはありました。

 

昔から人類が悩まされ、現在も私たちを苦しめている病気。

治療の歴史には、

もがき続けた人々がはまり込んだ闇とも思える治療法もあり、

呼吸器の専門を目指す医師は必ず知っておかなければいけない疾患であると思います。

 

 

刀根山病院の第2の特徴は、

肺癌はもちろん、多くの呼吸器疾患を診療している点です。

 

大阪には歴史ある呼吸器疾患専門病院がいくつかあり、

刀根山病院、近畿中央病院、羽曳野病院などが御三家として挙げられます。

いずれも、旧結核療養所として呼吸器疾患を診療していたこともあり、

結核を含めあらゆる呼吸器疾患がこの病院群に集まってきます。

 

刀根山病院もそうでした。

びまん性肺疾患、COPD気管支喘息、呼吸器感染症、非結核性抗酸菌症、慢性呼吸不全など。

圧倒的多数の呼吸器専門ドクターが在籍し、

一般の病院では年に数回しか診ることが無い疾患に毎日接している。

昔も今も刀根山病院は、呼吸器のプロフェッショナル集団だと思います。

 

 

現在、私はもみじ在宅診療所で在宅医療、外来診療を行っています。

 

特に外来では、

発熱や痰が多くなった

咳が長く続いている

肺癌が心配

息切れがひどくなった

などの患者さんが多く来院されます。

 

呼吸器疾患の患者さんに出会えた日には、刀根山病院の事を思い出し、

少し懐かしさを感じることがあります。

刀根山病院での経験は、私にとっての大きな財産だと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己紹介5

私、もみじさんが医師になってから、

現在の ”もみじ在宅診療所” を開設するまでをブログで紹介しています。

 

 

今回は医師になって4~5年目。

今から20年ほど前のお話です。

 

大阪城近くの市中病院で川ちゃん先生と出会い、

次の研修先として勧められたoo医療センターにレジデントとして応募。

呼吸器外科レジデントとして採用されたところからのお話です。

 

 

oo医療センターは大阪の都島にあり、前回の研修先からほど近くの病院です。

 

病院の規模はとても大きく、ベッド数は1000床以上もある巨大病院でした。

いくつかの大阪の市立病院が統合して出来たため、たくさんの科が存在しており、

それぞれの科がそれぞれの歴史をもっているようでした。

 

良く言えば、

それぞれの科はとても高度な専門性をもち、圧倒的多数の症例に最先端の医療を行っている 。

 

悪くいえば、

別の科に行けば別の病院の様で、役所の”縦割り”に似たものを感じる病院です。

 

私は呼吸器外科のレジデントとして、呼吸器科に所属させてもらいました。

 

 

ここでの部長は、髪は少し茶髪、50歳前後、藤井フミヤに似た雰囲気をもった

フミヤ先生でした。

 

川ちゃん先生から聞いていたとおり、とても優秀なのですが、

いらち です。

勉強もスポーツも自信満々なもてもての優等生といったタイプの先生でした。

 

 

初日から、挨拶もそこそこに手術浸けの毎日が始まります。

朝も、昼も、夕も、手術に次ぐ手術。

 

レジデントは呼吸器外科の全ての手術に入ることがルールの様で、

1日2~3件の手術に参加していました。

 

手術後は、呼吸器内科の先生と一緒にカンファレンス(症例検討会)、

呼吸器の検査や疾患の勉強、患者さんの回診等。

息つく暇もなく、毎日が過ぎていきました。

 

少しずつ勉強していくのでは無く、

圧倒的多数の呼吸器疾患の患者さんに囲まれ、呼吸器の世界にどっぷりと浸かり研修していくスタイルでした。

 

 

そうこうする内に、1年が経過。

少し慣れ始めた頃に、私の母から一本の電話がありました。

当時私は病院の近くに一人暮らしをしており、

母は大阪の実家で父と一緒に住んでいました。

 

「最近鼻血が止まらないことが多くて、近所の病院に行ってみる。」

それだけでした。

 

なにか胸騒ぎがした私は、後日母に電話し、

「大きな病院に行った方がいいかもね、いい病院を聞いといてあげる。」

といったのです。

 

それから、母はある病院で検査を行い、悪性腫瘍が見つかってしまいました。

 

とても不幸な病気であったため、

数ヶ月のうちに癌は進行し、いわゆる末期状態となってしまいました。 

 

まだ50代であった母は入退院をくり返し

ある日お見舞いに行った時、

別れ際に

「もう自分の家でずっと過ごしたい。」と言いました。

 

 

今から20年ほど前。 

まだ、在宅医療も介護保険もない時代でした。

今のように、訪問診療をしてくれる先生もみつからないところ

無謀にも ”母を家に連れて帰る” ことを家族で決めたのです。

 

主治医は私です。

 

いまから考えると、ひどく我流の在宅医療でしたが、

病院の先生と話し合いをし、家で看取ることを前提に実家に母を連れて帰りました。

 

 

それからは、呼吸器外科での研修を続けながら、

夜は少し早めに実家に帰る。

朝まで母親と過ごし、また実家から病院に出勤する生活を数ヶ月行いました。

 

最終的には、実家の近所のかかりつけ診療所の先生の助けもお借りして、

実家で母を看取りました。

 

これが、私の初めての在宅医療でした。

 

 

その後も、oo医療センターでの研修は続きました。

前にも増して、どっぷりと呼吸器の世界に浸かり、

呼吸器の医師としての経験、知識等はフミヤ先生にたたき込まれました。

 

一人前になるために、大きな病院でたくさんの症例を経験する。

寝る間を惜しんで文献を調べ、学会発表を行う。

医師としてはとても大切なことです。

 

とても名誉なエリート教育というものかも知れません。

 

しかし、この頃から少しずつ

”偉い先生” になる事に疑問を感じ始めました。

 

 

次の病院でのお話に続きます・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己紹介4

自己紹介、まだまだ続きます。

 

今回も、医師になって2~3年目。

ある大阪城の近くの市中病院に配属された時のお話です。

 

 

私は現在、呼吸器を専門としています。

それは、研修医時代にある先生と出会ったことがきっかけでした。

 

先生の名前は ”川ちゃん先生”、

上の先生も研修医も、皆いつも 川ちゃん、川ちゃん・・ と呼んでいました。

 

親しみやすく人好きで、人と話すのが大好き。

でも、まっすぐな性格で、

筋の通らない事があると、院長など偉い先生にもよく噛みついていました。

 

ご本人は呼吸器外科部長です。

呼吸器科の先生が他にいなかったため、呼吸器内科、呼吸器外科とも

すべての呼吸器の患者さんを診ておられました。

  

 

その頃、私は20代後半の研修医で、

急性腹症、胃癌や大腸癌、乳癌、呼吸器、心臓疾患、

その他あらゆる症例を経験したくて、毎日病院に泊まり込む生活でした。

 

研修の中心は、消化器疾患を主とする一般内科、外科で、

A先輩やB先輩を含め、

多くの研修医は呼吸器の疾患を、”さわり”程度に受け持っていました。

 

しかし、しばらくすると、

A先輩やB先輩は呼吸器にあまり興味がなかったこともあり、

上手に呼吸器の患者さんの受け持ちを外れていたのです。

 

結果、私がほとんどの呼吸器の患者さんを受けもつことになりました。

 

 

夜中にお腹がすいて、病院の食堂で焼きそばのカップ麺を作っていると、

よく、どこからともなく川ちゃん先生が現れました。

 

強烈な焼きそばのにおいをかぎながら、

「毒ほどうまい!」と言って、

横で自分も焼きそばを作り、たべていました。

 

そうこうするうちに、

呼吸器疾患の歴史、検査や診断、治療法など

呼吸器についての知識を詳しく教えてもらえるようになったのです。

 

肺癌の手術にもよく一緒に入れてもらい、

多くの先輩が触らせてもらえないところまで

こっそりと触らせてもらえました。

 

今考えると、いわゆる ”えこひいき” ですが、

”えこひいき” によってとても成長させて頂けたのだと思います。

 

 

その後、次の研修先を悩んでいたときに

川ちゃん先生が教えてくれました。

 

「呼吸器に興味があるのなら、大阪ではoo医療センターがいいと思う。

呼吸器、特に肺癌については大阪で最も症例が多い病院の一つだよ。

そこの呼吸器外科のF先生はとても手術が上手だから、次はそこで研修したら!」

 

将来、君が立派な呼吸器科の医師になったら、また一緒に仕事をしよう!

といって送り出してもらい、その病院での研修は終了しました。

 

 

その後、私はレジデントとしてoo医療センターに就職することが出来たのですが、

数年後、突然川ちゃん先生の訃報を耳にしました。

 

毎日の激務の中、仕事中に突然帰らぬ人となったとお聞きしました。

医師、特に外科医にはよくあることなのですが、

仕事に追われ、患者さんの事ばかり考えて、自分の健康がおろそかになってしまう。

 

とても残念で、今でも尊敬する川ちゃん先生のことは忘れられません。

 

今の自分が

呼吸器を専門にしていること

外科医では無く、開業医として働いていること

すべて、川ちゃん先生との出会い、別れによって起こった出来事だと思います。

 

今の自分は川ちゃん先生とほぼ同じ年齢です。

医師として、

川ちゃん先生に少しでも近づけていれば、幸せだと思います。

 

 

 

 

 

 

自己紹介3

医師になって2~3年目。

まだ右も左も分からない時に、ある大阪城の近くの市中病院に配属されました。

今回も、そのときのお話です。

 

 

数多くの先輩や同期の研修医が集まっている病院で、

当時、私は研修医として内科、外科、消化器外科を中心に勉強を行っていました。

 

まずは、

一般の風邪や熱がでた、胸やお腹が痛い、咳がでる、湿疹が出来た 等々から、

血痰や血便、レントゲンでの異常影など・・・

よく病院で見かける疾患を毎日たくさん経験します。

 

 

その中でも、”急性腹症” と呼ばれる疾患は 多くの研修医にとって

最も恐ろしい、しかし興味のあるものでした。

 

急性腹症とは、

" 急激に起きる腹痛を主訴とし,短時間内に手術を含めた治療方針を決定する必要がある腹腔内疾患 ” 。

 

「お腹が痛い」

といって病院に来られた方の大部分は、風邪や胃腸炎であったりするのですが、

中には本当に重症で、すぐに入院、手術になってしまう患者さんもおられるのです。

 

代表的な物は、急性虫垂炎(もうちょう)、膵炎、胆のう胆管炎、腸閉塞、癌、心筋梗塞、婦人科疾患・・・

様子をみているだけでは

翌日には急変することもある病気の総称を 急性腹症 と呼んでおり

ものすごく恐ろしい反面、研修医時代に必ず乗り越えなければならないものでした。

 

 

当時、

所属していた内科や外科の先生は、急性腹症については完全にマスターしていました。

1年上のA先輩やB先輩も。

 

これらの先生方は

腹痛の患者さんのお腹を触診するだけで、おおまかに

重症急性虫垂炎などが分かるようで、当時はまるで手品を見ているようでした。

 

 

それからは、腹痛の患者さんが院内にいれば、すぐに飛んで行く。

救急で腹痛の患者さんが来れば、すぐに飛んでいく。

その後、必ず何の病気であったのかを担当の先生に確認しに行く。

手術になったときに入れるように、ほぼ毎日病院に泊まり込む。

 

これらのことを2年間ほどくり返していました。

 

毎日病院に泊まり込む生活を続け、

外科や内科の先生、放射線科の先生には

金魚のふんのようにつきまとったりしながら、

最終的には、急性腹症はきちんと診断できる医者

になれた様な気がします。

 

 

今でも、

もみじ在宅診療所の外来や

お手伝いに行く市民病院の救急外来にも、時に急性腹症の患者さんが来られます。

 

あのときの、むちゃくちゃとも思える研修生活がなければ、

今の自分はなかったのかな、と思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己紹介2

今回は、医師になって2~3年目の頃のお話です。

 

大学病院での研修生活を送った後、

私の希望であった、大阪城の近くにある400床程度の市中病院に配属されました。 

そこは当時とても活気があり、若い研修医がたくさん研修していました。

 

 

毎年6~8人程度の先生達が入職し、

内科、外科、呼吸器科、消化器科、循環器科、血液内科、整形外科、泌尿器科産婦人科、小児科、等々を研修します。

 

私は内科、外科、消化器外科を中心として、

1年先輩のA先生、B先生とともに研修を始めたのです。

 

A先生、B先生共にとっても優秀でした。

A先生は良く言えば親分肌。

先輩風をふかせまくるタイプでしたが、

その分面倒見も良くて、いろいろな事を教えてくれます。

人付き合いは大変上手で、偉い先生方や看護婦さん(昔の言い方です!)には

とても好かれていました。

”もてる事はとても大事!” といったオーラがいつもあふれている

エネルギッシュな人でした。

 

B先輩は優等生タイプ。

すべての事をほぼ完璧にこなしていました。

うまく周りに合わせて、チームプレイを大事にします。

しかし、どこかに目には見えない野望のような物はあったように思えました。

 

 

外科の最初の研修は、まずは数多くの手術に入る事。

週に5~10件近く手術に参加します。

いつの日か執刀する日が来る事を夢見つつ、

第2助手として、手術を見ることと少しお手伝いをする事が主な仕事です。

 

朝、A先輩から手術前に少し手術のレクチャーを受け、

一緒に手術に入ります。

私はほとんど何もさせてもらえませんが、

A先輩は手術中に縫合や結紮、手術の最後には閉腹(お腹を閉める事)を一人で出来るまでになっていました。

 

昼ご飯は、食べるか食べないかの内に午後の手術。

 

手術が終わると、もうすっかり夜です。

 

残った仕事を始めるものの

なぜか夜12時頃に、A先輩から ”天満橋まで飲みに来い” と連絡が入る。

あわてて仕事を片付けて、町に出かけていく。

 

このような毎日を送りながら、いつか外科の執刀医になる事を目標にしていました。